鳴門渦潮と淡路島(伊弉諾神宮)の世界遺産登録を目指しています。

鳴門渦潮と淡路島を世界遺産に

淡路島を世界遺産に
religion

HOME > 活動の基本理念

日本国民の文化的オリジナリティの認識

昨年、フランス競馬世界最高峰のレース凱旋門賞の前日の現地スポーツ紙の見出しは「日出ずる帝国の使者が、伝統の凱旋門賞を独占するか?」でした。これは、日本から参戦したオルフェーブル、キズナの二頭の前評判が高く、1,2着を独占するとの予想の記事です。
ここで書かれている「日出ずる帝国」日本は、第二次世界大戦時フランス等連合国側と対峙した枢軸国側“大日本帝国”とは全く違ったニュアンスで書かれています。そこにあるのは、3000年の伝統文化をもった、極東の神秘的な国から送り込まれた使者(競走馬)というとらえ方であり、帝国といういい方は世界で最古の歴史を持つエンペラーを戴く一方で、世界をリードする科学技術国であり、多くの芸術文化面でも世界に影響をあたえて続けている日本という国家にたいする、いわゆる”いけてる国”としての敬意と憧れを込めた表現だと感じます。
戦前の大日本帝国憲法下の日本においては、神道文化は国民をコントロールする手段であった側面は否めません。しかし戦後民主憲法の下、国民の基本的人権がベースでの戦後日本においては、神道文化は日本人の歴史、文化性を現す独自性の大きな柱のひとつであると考えます。
religion_02グローバル化する世界のなかで、日本人であるという証のひとつが、国民が日本古来の独自文化的遺産としての神道への認識を持つことと考えます。
今回の、天皇家の始祖アマテラスの生みの親であるイザナギ、古事記由来の国生み神話に思いを至らせる淡路島(伊弉諾神宮)の世界遺産登録の達成は、先進国日本人の文化的土壌を理解し、正しい意味での世界の他民族に対する独自性を認識し、その誇りを以って、世界に対して日本人らしい貢献が出来るといった自覚を国民に芽生えさせる力を持っていると感じています。

世界に向けた宗教的な発信

紀元前、イスラエルの有力家長であった、アブラハムはある時神様から一つの啓示を受けます。
「アブラハムに子供を授けよう。その子孫は将来星の数のように増えて、このイスラエルの地に満ち溢れるであろう」
アブラハム100歳、妻サラ94歳。啓示を受けて後も一向に子供は授からない。信仰深いアブラハムは、その啓示が偽りなく実現されるはずと信じ、美貌の奴婢ハガルに自らの子種をやつし、それを正妻サラの膝の上で出産させることで嫡子とし(当時のイスラエルでは族長の子供に限り、子宝に恵まれない場合は、奴婢の腹を借りて子種をやつし、正妻の膝の上で出産すれば嫡子と認めるという不文律があった)、その子をイシュマエルと名付け嫡男として寵愛する。
その後、幾年かのち、今度は本当に正妻サラが身ごもり、男児を出産しイサクと名付け、二男として育てられる。イシュマエル、イサクは等しく父アブラハムに愛されて育ち、兄弟愛を育んでゆく。
しかし、正妻サラがイサクの嫡男権を主張、折り合いがつかなくなった、正妻サラと妾の立場のハガルの確執に悩んだアブラハムは、苦渋の決断ながらも、イサクの嫡男権を認め、ハガル、イシュマエル母子の追放を決心する。そして、イシュマエル、イサクに悲しい別れの日が訪れる。アブラハムとイサクが見送る中、数日の食料を手に、ハガルの故郷であるアラブに向けて砂漠の中に旅立ってゆく母子。振り返りもせず前も向いて進む母ハガルとは違い、イシュマエルは何度も振り返り、いとしい父親、弟の姿を目に残そうとする。イサクもイシュマエルの名を叫び、手を振り続ける。
その後、アブラハムの死に際して、再会したイシュマエルとイサクは二人で最愛の父アブラハムを葬った。
(旧約聖書より引用)

父アブラハムの信仰心ゆえに出生し、現実社会の確執の犠牲となって引き裂かれたイシュマエル、イサクの兄弟。時がたち、イシュマエルの子孫からマホメットがでてイスラム教の始祖となり今日に至り、イサクの子孫からはモーゼ、ダビデ王、ソロモン王、そしてイエスキリストがでて、ユダヤ教、キリスト教として今日に至っている。一方、目を転じて、最愛の妻イザナミを失い打ちひしがれるイザナギ、母への思いが断ち切れず、兄ツクヨミの治める黄泉の国に母を求めて旅立とうとするスサノオ、スサノオの来訪を誤解しそれがもとでの激しい兄弟喧嘩の末、岩戸に隠れてしまうアマテラス。
(古事記より引用)

religion_01アマテラス、ツクヨミ、スサノオ、にとってのイザナギ、イシュマエル、イサクにとってのアブラハム。
イザナギに思いをはせることはアブラハムに思いをはせることにつながり、既存の宗教権威の象徴の源として君臨し、その正統性を主張し合う彼らの子たちの家族としてのもともとの原点に立ち返り、果て度なく続く宗教対立、今日のとげとげしい権威主義に、穏やかで、温かみのある視点を与えてくれることになり、解決へのメッセージたりえる可能性を持っていると考えます。