国土創生の神

伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)が最初にお生みになられたという淡路島。

諭鶴羽山・諭鶴羽神社

諭鶴羽山は標高607.9m(一等三角点)で、淡路島最高峰です。諭鶴羽山一帯は、瀬戸内海国立公園に指定され、温暖な気候や変化に富んだ地形から、貴重な動植物が生息しています。

伊弉諾神宮

淡路島は、「古事記」の冒頭のイザナギ、イザナミの2神による日本国国産みの最初にできた島として登場します。以降、淡路島は皇族、朝廷と深い関係性を持った土地(島)として、万葉集などの中央貴族達の活動の中によく歌われ、また御食国(みけつくに)として、皇室との関わりを維持し続けた地であります。
その象徴としての存在が伊奘諾神宮です。イザナギが、国生み・神生みを終えて最後に休息をとった場所が伊奘諾神宮の位置とされています。(古事記、日本書紀に記載)
全国で23しかない神宮格を持つ神社の中で最古の神宮です。天皇家の氏神であるアマテラスの父がイザナギですので、アマテラスを祀る伊勢神宮の上位に位置する唯一の神宮です。
戦前までは、伊奘諾神宮宮司は旧宮家制度下での皇族が代々勤めてきたことからも天皇家にとっての重要性がうかがわれます。

おのころ神社

おのころ神社は、その沼島の中にあって、いざなぎ・いざなみの二神をお祀りしてある。(国生み神話ゆかりの神社)

絵島

国生み神話に伝わる「オノコロ島」だとされる場所の一つ。

霊峰先山・千光寺

国生み神話ゆかりの山で、いざなぎ・いざなみの二柱による国土創世のとき、日本で一番最初につくられたとされる由緒ある山です。「梵鐘」は国の重要文化財にも指定されています。

イスラエル遺跡

淡路島ユダヤ人渡来伝説

27年、淡路島古茂江(コモエ)海岸、洲本市小路谷(オロダニ)にある旅館「四州園」(現ホテルニュー淡路別邸 淡路夢千景)内の小磯といわれる景勝地の海岸でイスラエル人の遺跡と思われるものが発掘され当時の神戸新聞にも「日本人にもユダヤの血?淡路で遺跡発見」と大きく報じられている。淡路には他にも、諭鶴羽山を中心に同様の遺跡が多数発見されている。
淡路島には。油谷(ユダニ)、古茂江(コモエ)、小路谷(オロダニ)、由良(ユラ)、諭鶴羽(ユズルハ)、といったヘブライ語を想起させるような地名が多く存在し、日本人とユダヤ人の祖先が同じとする日ユ同祖論の舞台となってきた。諭鶴羽山の諭鶴羽神社、先山の千光寺、沼島、洲本市由良、古茂江、南あわじ市灘油谷などがユダヤ人ゆかりの場所といわれている。

沼島

はるか昔、神々がつくり出した最初の島「おのころ島」だという伝説が残り、今もなお自然のままの姿を残す。「記紀」によると伊弉諾尊・伊弉冊尊の二神が天上の「天浮橋(あめのうきはし)」に立って、「天沼矛(あめのぬぼこ)」をもって青海原をかきまわしてその矛を引き上げたところ、矛の先から滴り落ちる潮が凝り固まって一つの島となった。これがオノゴロ島で、二神はその島に降りて夫婦の契りを結んで国産みを行った。初めに造られたのが淡路島で、その後次々に島を生んで日本国を造られたとされる。
このおのころ島の所在地については諸説紛々としていて、そもそも架空の島であると言う説、淡路島北端の淡路市にある絵島、南あわじ市榎列(えなみ)の自凝島神社のある丘、あるいは淡路島全体であるという説もある。しかし南あわじ市には古くからおのころ島の地名があり、二神を祭る「おのころ神社」が存在するため沼島とする説もある。

淡路 国分寺

本尊釈迦如来像は像高約3mあり、淡路一の仏像。全国で唯一の造立当初の本尊が残っている国分寺です。

淳仁天皇陵

天平宝字8年(764年)、恵美押勝の乱により失脚させられた淳人天皇は廃位されるも親王の格式をもって淡路島に流された。その後もその力の復活を恐れる称徳天皇によって厳しく監視され、淡路の地で非業の最期を遂げた、淡路廃帝と称される淳人天皇の御陵である。

銅鐸7個発見

兵庫県南あわじ市の松帆地区で採取された砂の中から、弥生時代前期末~中期初頭(紀元前3~同2世紀)の銅鐸7個が見つかった。県と同市の両教育委員会が19日発表した。島根県の加茂岩倉銅鐸(39個、国宝)や神戸市灘区の桜ケ丘銅鐸(14個、国宝)などに次ぐ多数の出土。少なくとも1個は全国でも11例しかない最古形で、状態は良好だった。初期の銅鐸を解明する一級史料となる可能性が高く、研究者は「数十年に一度の大発見」と注目する。
見つかった銅鐸は、つり手(鈕)断面がひし形の「菱環鈕2式」と、本体部分の両脇に飾り板が付いた「外縁付鈕1式」の2種類。いずれも古式で、高さは約20~30センチ。うち3組6個は、中に小型が入れてある「入れ子」状態で、残り1個は単独で破損した状態で見つかった。銅鐸内部につるされて音を鳴らす青銅の「舌」(振り子)3本も発見された。銅鐸とセットの出土は全国で2例しかなく、極めて貴重。入れ子状態の3組のうち、1組は発見時に分離されており、今後、他の2組をCT(コンピューター断層撮影)スキャンで調べるが、全てに舌が残っている可能性がある。兵庫県の銅鐸出土数は全国最多で、今回の発見で計68個(伝承記録分を含む)になる。うち21個が淡路島分。今回の7個はいずれも、南あわじ市の西海岸沿いに位置する松帆地区に、一括して埋められていたとみられる。同地区の中の御堂では江戸時代に銅鐸8個の出土記録(1個現存、重文)があり、古津路でも銅剣14本が出土。いずれも作られた年代が近く、何らかの関係が推測される。同市埋蔵文化財調査事務所の定松佳重さん(46)は「こんなに大量に見つかるとは思わず、驚いた。青銅器文化を広い視野で見直す必要がある」と話す。銅鐸は4月8日、同市内の玉砂利製造販売会社の従業員が砂を選別作業中に見つけた。連絡を受けた市教委が調査し、同23日までに残り5個を確認した。(田中真治)

【難波洋三・奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長の話】

古い段階の銅鐸が7個、しかも舌を伴って見つかるのは非常に珍しい。音響具の機能を保ったまま埋めるのは淡路の特徴かもしれず、埋納の意味や時期を考える上で興味深い。畿内中心部ではなく、地元の勢力が埋納の主体であったとも考えられる。島根県の加茂岩倉遺跡出土の銅鐸と似たものがあり、同じ鋳型から作られた可能性もある。状態がよく、美的にも優れており、銅鐸自体の研究も進むのではないか。

五斗長垣内遺跡

本遺跡は2001年(平成13年)に発見され、2007年(平成19年)から発掘調査が実施された。遺跡は淡路島の西側海岸線から三キロの丘陵地にあり、東西五百メートル、南北百メートル。弥生時代後期・1世紀ごろのおよそ100年間にわたり存在したと考えられる。遺跡には竪穴式住居や鍛冶工房などが復元されている。
弥生時代後期の鉄器製造施設跡が23棟から成っており、うち12棟から鉄を加工した炉跡の遺構が確認された。遺物の鉄器は、矢尻、鉄片、鏨(たがね)、切断された鉄細片など75点が出土した。また石槌や鉄床石(かなとこいし)、砥石など、鉄を加工するための石製工具も数多く出土した。1棟の中に10基の鍛冶炉がある建物も発見され、これまで発見された弥生時代の鉄器製造遺跡としては、最大規模であった。住居は少なく、鉄器製作に特化した特異な遺跡である事が分かった。
淡路島のような人口の少ない小規模の島で、生活のためにこれほど大量の鉄器は必要ない。魏志に記された倭国大乱邪馬台国の時期に重なり、大和王権成立にいたる戦乱期の中でこの施設が軍事利用されていた可能性もある。

野島断層

野島断層(のじまだんそう)は、兵庫県淡路市にある活断層。一部が保存され文部科学省によって天然記念物に指定されている。長さは淡路島の北西部・旧北淡町の北端、江埼灯台付近から富島地区までの約10kmにわたり、六甲山より淡路島に至る六甲・淡路島断層帯の一部にあたる。1975年の地質図に活断層として記載された。

地震活動と断層の隆起編集

1995年(平成7年)1月17日午前5時46分に発生した兵庫県南部地震は六甲・淡路島断層帯が活動したために起こったもので、中でも構成断層のひとつである野島断層は震源に最も近い断層である。地震発生の際には断層南東側が南西方向に約1m~2m横ずれし(横ずれ断層)、同時に南東側が約50cm~1.2m隆起して逆断層となっている(一部、野島蟇浦地区では北西側が20~40cm程度隆起)。この際に変位した断層面が地表に露出した。
この断層による破壊状況が最も顕著であった旧北淡町小倉地区(現・淡路市小倉地区)には1998年(平成10年)に「北淡町震災記念公園(現・北淡震災記念公園)」がオープンした。公園内に「野島断層保存館」が設けられ断層の一部が保存されている。この年の7月31日に国の天然記念物に指定された。また、神戸市長田区にあった通称「神戸の壁」も同施設に移転し公開されている。なお、2011年(平成23年)8月22日には入館者数が800万人目を迎えており、淡路島有数の集客施設にもなっている。

淡路だんじり祭り

元禄3年(1690)、洲本の庄二郎または与二郎という船頭が九州の日向の国(宮崎県)へ行った際、古物商から屋台を買って帰り、同年8月の洲本八幡神社の祭礼に出したのが起源だと言われています。

淡路島人形浄瑠璃

この人形芝居は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冊尊(いざなみのみこと)の子である「蛭子神(ひるこしん)」の心を慰める為に、西宮戎神社で奉納された人形操りがその始まりであるとされています。

伊弉諾神宮を中心とした太陽の運行図

伊弉諾神宮を中心として見た東西南北、夏至、冬至の日の入出の位置の延長線上に伊勢神宮、出雲大社、諏訪神社、高千穂神社といった我が国の司祭統治の要となる主要神社が配置されているとする見方ができます。そもそも、古事記の国生み神話に淡路島が選ばれたのは、大和朝廷の原始となる部族が九州から瀬戸内海の島々を東方に進み、淡路島が瀬戸内最後にして最後にして最大の島であったことから、本州に上陸して大規模な国家形成に乗りだそうとするに際して淡路島を大望成就のスタート地と定めたためと推測されています。
従いまして、彼らが建国を誓った記念の地淡路島を中心として、彼らが国を建てようとした本州など大八島の統治プランをたてるにあたり、当時、国治めの要であった司祭拠点を、太陽信仰に絡めて東西南北、冬至夏至の太陽運行に従い、各地に配置デザインした結果が今の主要神社の配置位置であると推測されます。

伊弉諾神宮を中心として見た東西南北、夏至、冬至の日の入出の位置の延長線上に伊勢神宮、出雲大社、諏訪神社、高千穂神社といった我が国の司祭統治の要となる主要神社が配置されています。

常隆寺

北淡路随一の名刹である常隆寺は、常隆寺山の最高峰伊勢の森頂上近くにあり、洲本市千光寺、淡路市東山寺とともに、淡路三山の一つとして高山信仰の聖地でもあります。県の天然記念物であるスタジイ・アカガシ・モチノキ・ヤマボウシの群落に包まれ、本尊の木造十一面観世音菩薩像は行基の作と伝えられています。
桓武天皇は、息子の早良親王に対し一方的な謀反の疑いをかけ、淡路島への流罪の刑を通告、無念の王子は、淡路島に向かう途中の船中で憤死を遂げる。 王子の怨念を恐れた桓武天皇が、その御霊を鎮めるために淡路島に建立したのが上隆寺である。 その後も早良親王の呪いといわれる異変が続き、それを鎮めるべく桓武天皇は都を平安京に遷都、阿部晴明らの陰陽師達による、悪霊封じとつながって行く。

東山寺

淡路市で紅葉とパワースポットを楽しむなら、東山寺もおすすめです。
東山寺は、弘法大師がイザナギ神宮の鎮護と庶民信仰の中心として開祖された由緒あるお寺です。また、現在の本堂及び山門は室町時代淡路守護職(三原養宜館主)細川頼春が寄進されたもので、淡路最古の木造建築物です。

舟木遺跡

舟木遺跡は、兵庫県淡路市舟木のある弥生時代後期の集落跡です。1991年から発掘調査をおこない、竪穴住居跡や中国で作られた青銅鏡の一部が見つかっていました。そしてあらたに尾根の7ヶ所で調査したところ、通常の住居とは異なる直径10m超えの大きな円形の建物跡が4棟も見つかりました。
こういった構造物の遺跡は、時代背景からすると極めて特異的であり、五斗長垣内遺跡と同様、大和朝廷成立に至るまでの古代国家における淡路島の重要性が古事記国生み神話の「最初の島」としての登場につながっていく要因を示していると言える。